仏壇の前で手を合わせて帰省の報告をする

新潟駅で新幹線を降りて深く息を吸い込む。千葉と比べると、湿気があって冷たい空気が肺にしみる。新幹線から在来線の特急いなほに乗って実家のある新発田に着く頃には新潟の空気が身体に馴染んでいる。

新発田駅に着くと父が車で迎えに来て待ってくれている。駅から実家までは徒歩で10分とかからないのだが、わざわざ迎えに来てくれる父の気持ちをいつも嬉しく思う。

実家に着いて仏壇にお菓子を備えて線香を上げる。
仏壇の上の遺影の曽祖父の写真を見つめて帰省の報告をする。

曽祖父が亡くなったのは自分が小学5年の時だ。
夜中に母に「ひいおじちゃんに最後の挨拶に行こう。」と起こされ
曽祖父の寝ている寝室に行くと祖父の兄弟全員と白衣を着た医者と看護婦が曽祖父
の布団の周りに座っていた。

小学5年の自分は、初めて見る曽祖父の死に嗚咽しながら泣きじゃくっていたのを
覚えている。

しかし、今、思い返してみると何で悲しい気持ちになったのか解らない。
実際に曽祖父の死を実感できたのは葬式などが終わって日常に戻ってからだ。
学校が終わって、家に帰って「ただいま。」と声をかけても曽祖父の返事が無い。霊感とかは全く無い自分だが家に入った瞬間に曽祖父の気配が無いのが解る。亡くなる前はタプタプとコップいっぱいだった水が減ってコップにまだ水が入る余裕ができてしまっている。気配が一人分足りないのが解る。実際に曽祖父の死を実感できたのはこういう体験をしてからだ。

今まで体験したことの無い、初めて体験する「死」に対して、何で悲しい気持ちになったのだろう。
人間の本能からか、テレビドラマで学習したのだろうか。涙がたくさん出たし、ひどく悲しい気持ちになったが、それがどうしてなのか考え直すようになった。

34歳になった自分が今考えられるのは、人生で初めて「死」に直面して、純粋に自分の「死」に対して恐怖を感じたのではないか、ということだ。「悲しい」よりも「怖い」の方がその時の感情を表す言葉としてしっくりとくるような気がしている。

つまり、その人は何々会社の部長で、お金もあるし、退職後のこともわかっているし、何もかもわかっているのだけれども、それは私なんだろうかという悩みです。非常に上等の組織というか、そんな中で何もかもエスタブリッシュしてきたと思っていたけれども、考えてみたら、金があって家族があって地位があるなんていう人はたくさんいるわけです。むしろ、私本来のものは何かと考えると、すごくむずかしい。考えはじめると、不安でたまらなくなってくる。わけがわからない不安に苛まれる。
(「『日本人』という病」河合隼雄著 静山社文庫)

「分ける」世界の強い人の説明している河合先生の言葉がこの時の「怖い」という感情に近いかもしれない。とにかく怖い、不安なのだ。
田舎の小学校内の話だけれど、それまで勉強も運動もできた。学力テストで1番をとったしマラソン大会でも1番をとった。勉強も運動も、自分ができない理由が無かったし、それを何でやらなければいけないのか考えたことさえ無かった。社会というシステムの中に入り込んでいるという自覚さえ無かった。

 みなさんも体験されたかと思いますが、受験勉強をしているときにはどうも「融合」の世界が気になります。急に、いったいこんなことしていてどうなるんだろうとか考えてしまうわけです。これは大事なことなんでしょうが、そこにエネルギーがかかりすぎると、この世はとても生き難くなります。そして、「分ける」世界に突入して手放しで喜んでいると、自分がわからなくなってしまう。
(前出より)

でも、曽祖父の死をきっかけに「自分は、何で、何のために生きているの?」ということを考え始めてから勉強ができなくなった。社会というシステムの枠の中に入り込んでいるうちは社会の中で上手く生活できていたように思うが、社会というシステムの外枠自体に意識がいってしまってからは社会の中で生活が苦しくなったような気がする。(社会の中に入れていないのだから当たり前か。)

 この世に生きているということは、この世とつながっているということです。そして、この世はシステムを持っているわけですから、それを全部捨てて生きるということは、もう非常に難しいことです。
(前出より)

河合先生の「分ける」世界と「融合」の世界のお話が、わずかばかりだが理解できてきたように思う。おそらく自分は曽祖父の死をきっかけに「融合」の世界が強くなってしまって、「分ける」世界を否定してしまっていた。でも、「分ける」世界の自分も自分だし、「融合」の世界の自分も自分でよいのだ。

最近、ようやく小学5年の時の社会に入り込んでいる感覚を思い出せてきた。今年は「融合」の自分も残しつつ、上手く社会のシステムの中に入っていけそうな気がしている。(いつでも抜け出せる準備をしつつ)

「分ける」社会のシステムがキュウキュウに成り過ぎて、今の子供は(大人もか)「融合」の世界に関して考える暇が無い、物事を考える物差しが数字だけになってしまっていて、人間そのものを見なくなってしまった、というのが今年のお正月の話題でしたが、その話はまたの機会に。