『街場の教育論』読書記録

つまり、彼ら(学生たち)は「だらだらしている」のではなく、
『だらだらしている』ように見せる」ためにそういう動作を
している。
その緩慢な動作を通じて、教師に「私はあなたに敬意を
示したくない」というメッセージを送っている。
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 私はこの努力こそ「個性化」の兆候だろうと思います。
彼らは集団でひとつの共―身体を構成し、呼吸を合わせ、
同時に笑い、同時にため息をつき、同時にのけぞるといった、
昔の子どもたちが熟達していた非言語的コミュニケーションの
術をあきらかに意図的に放棄しています。
ランダムであること、秩序が構成されないこと、共同的な一体感が
立ち上がらないこと、それが強く希求されている。

「街場の教育論」  内田樹 著

学校の授業が面白くないのであれば、教師にどこが面白くないのかを伝えて
みればいい。面と向って面白くない、とは言えないかもしれないけれど。

でもそれなら自分がどのようになりたいのか、どんな知識を得たいのかを、
先生に相談してみればいい。そうすれば先生もそれを参考にするだろうから、
授業が少しは面白くなるかもしれない。

「敬意を示したくない」だけでは、コミュニケーションの回路が途切れてしまう。
コミュニケーションの回路を切ってるのにもかかわらず授業には来るのだから、
きっとかまってほしい、相手にしてほしいんだろうな、と感じる。
実際かまってあげると、とても喜ぶ人が多い。

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