「『言語技術』が日本のサッカーを変える」読書記録

 いまの若者たちは、すぐに “きもい” “エロい” “うざい” といった簡単な
ことばを使ってコミュニケーションを取ろうとします。普段は、
どこが、どのように「気持ち悪い」のか、誰が、どのように
「エロティック」なのかを、論理的に突き詰めて考えるという習慣を
持っていません。
 自分の求めたコミュニケーションが環境や状況に合致しない場合
には、「ビミョー」「うざい」といった曖昧なことばを使って、
その場をやりすごしてしまいます。こうした、問題点をぼやかして
言語を選ぶ、ということもロジカルコミュニケーション、すなわち
「言語技術」のひとつではあるのですが、それではこうした行為を、
日本で「言語技術」として自覚しているでしょうか?
していません。自覚していないために、戦術として使うことも
できないのです。

「『言語技術』が日本のサッカーを変える」 田嶋幸三著 より

治療の問診でも同じことがいえると思います。
相手の方から初めに聞く「痛い」という言葉はまだ曖昧で、これを問診で明確に
していきます。

どこが痛いのか、いつから痛いのか、症状が出始めた当初と比べて現在の痛みの
大きさはどうか、痛みの大きさを10段階で評価するといくつか、どのような動作
で痛いのか、どんな時に痛いのか、などを問診で聞いていきます。

患者:腰が痛いです。

施術者:腰のどこが痛いですか?
患者:右のお尻の少し上の方が痛いです。

施術者:指で押すと痛いですか?
患者:少し痛いです。

施術者:熱感はありますか?
患者:熱感はありません。

施術者:痺れはありますか?
患者:痺れはありません。

施術者:いつから痛いですか?その時と比べると症状は悪くなってますか?
    軽くなってますか?変わらないですか?
患者:2週間前から痛いです。痛みは軽くなってきています。

施術者:2週間前の痛みの大きさを10段階で評価して10だとすると、今の痛みは
    いくつでしょうか?
患者:2週間前の痛みを10とすれば、今の痛みは7くらいです。

施術者:腰はどんな時に痛いですか?
患者:寝て起きた後や、椅子に長時間座った後に立ち上がる時に痛いです。

施術者:立った姿勢で前屈してみて腰に痛みは出ますか?
患者:痛いです。

施術者:上体を後ろに反らせた時は痛みは出ますか?
患者:痛くないです。

施術者:横に捻った時は痛みが出ますか?
患者:左に捻ると少し痛いです。

・・・

施術後、2回目の施術の際にも同様の問診を繰り返していきます。
繰り返していくと、痛む場所が小さくなったり、押しても痛くなくなったり、
痛みの大きさが7から3になったり、寝て起きた後は痛くなくなったり、という
ように少しずつ身体が変わっていきます。「痛い」という大きな塊があった
として、問診でその塊を小さく切り分けていくようなイメージでしょうか。
切り分けた「痛み」を一個ずつ一個ずつ施術やトレーニングを行い消化していく。
そうして「痛み」塊は段々と小さくなって無くなっていきます。

1回の施術で全ての症状がスッキリと劇的に治ることはそう多くありませんから、
対話を続けその内容を記録しておくことが大切です。

患者さんも医師・治療者も会話する体力が落ちてきているように思います。
医師や治療者は、「加齢のせいだ」「同じ歳の人は皆そうなんだ」と会話を
断ち切ってしまいますし、患者さんは、自分が言葉一つ発しないで身体を
治してくれるゴッドハンドに期待して受け身になってしまいがちです。
お互いに対話をする労力を惜しんでは治るものも治らなくなってしまうと
私は考えています。

■個人的メモ

〜 
 先ほどの質問(サッカーが好きな理由)に対する、各人のいろいろな答えは、もちろんすべてが正解です。それぞれに違いがあって当然なのです。ところが、いまの学校教育は、基本的にひとつの正解を求めるようなシステムになっていて、質問が出されると、その問題に対する正解を探そうという態度になりがちです。

 つまり、評価されるのは「答えが合っていたかどうか」だけなのです。
 他人のいろいろな意見を聞いたり、別な考え方を知ったり、議論をしたりという機会がとても少ない。答えはひとつしかないと思いこんでいる。問いを発した人の答えと違う答えを言ってはいけないのではないか、と不安を持っている。間違ったことを言うのを恐れ、恥ずかしがる気持ちがとても強い。現在の教育システムの中に、そんな雰囲気を感じるのです。答えはひとつしか許されない、という空気は、問題を様々な角度から論理的に考えていく豊かなプロセスを否定することにつながりはしないでしょうか?
「『言語技術』が日本のサッカーを変える」 田嶋幸三著 より

 日本の家庭の中で「あうんの呼吸」があってよいし、たとえばの話、「おい、ビール」と言ったとき、妻に「ビールをどうしたいの?飲みたいの?」なんて聞かれたら、味も素っ気もなくなるから、そういうことまですべて排除しようというわけではありません。

 ドイツだったら、子どもが「のどが渇いた」場面を想定して考えたとき、母親は突っ立ったままでいることでしょう。「のどが渇いた」という本人は、いったい何を飲みたいのか? それを具体的にことばにして伝えない限り、飲み物は目の前に出てこない。それがドイツをはじめとする欧米型のコミュニケーションなのです。
「『言語技術』が日本のサッカーを変える」 田嶋幸三著 より


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