これに似た現象として、コンプレックスの共有による集団構造という現象もある。たとえば、劣等感コンプレックスの強いものばかりが集まったとき、それを暗黙の共有物とし、次に多数の力をたのんで去勢をはり、劣等感に対する反動形成によって自らを守ろうとする。いわゆる不良少年の集団などである。
この場合も、集団の結束力は非常に固い。つまり、この集団外へ出ると、それは個人として自分自身の劣等感コンプレックスと対決しなければならないからである。それは余りにも恐ろしいことだ。このような集団内に安住しているかぎり、そこは形容し難い暖かさをもった場所となる。
(河合隼雄著 『コンプレックス』岩波新書より)
学生の時にチョイ悪な集団にいた時期があったが全く楽しくなかった。
彼らは自分が何かをしたいわけではなく、反発すること自体が目的だった。
自分が何かをしたくて、自分がしたいことを邪魔するものに対して戦っているわけではなく、反発することそのものが目的だったように思う。おそらくこれは母親に対する甘えとさほど変わらない。河合先生のおっしゃる『形容し難い暖かさ』とは母親のもつ暖かさと似ているのではないだろうか。
最近の自分が感じているのは、自分の目的を遂行するために『自分の目的を邪魔する誰かと戦う』というような攻撃性はほとんど必要ないということだ。攻撃性が出ている時は自分のコンプレックスを相手にぶつけてしまっているだけで、その無駄な攻撃性のせいで目的が達成できないことが多々あった。
コンプレックスの共有現象は不良少年のみのものではない。われわれの夫婦関係、友人関係、いろいろなグループ内の人間関係に存在している。コンプレックスの共有がその集団の成員を結ぶ最大の絆であり、コンプレックスの強度が強い程、そのような強力な連帯感は、成員の個性を殺すものとして作用し始める。
(河合隼雄著 『コンプレックス』岩波新書より)
自分自身のコンプレックスと向き合うのには苦しい。苦しいがコンプレックスは自分が成長するために対峙しなくてはいけないテーマでもあると思う。自分がこういった集団に属するのを好まないのは、このテーマがボヤけてしまうのが嫌いだからだ。
集団になると、人と人との距離感を曖昧にしてくるもの、テーマをぼやかしてしまうものが必ずいる。人当たりが良く親切そうな優しい顔をして近づいてくるが、自分はこういう人が本当に怖い。